高校生のころの恋愛禁止の弊害

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  高校生のころって、受験が頭から一瞬たりとも離れなくていつも思考のどこかにあって、部活が終わったら超早く家に帰って勉強して、睡眠時間が3時間から4時間くらいで、1時間半くらいかけて自転車通学だったりしたから、今考えると、恋愛とかしている時間の余裕がなかったです。。

 もちろん、高校3年生の受験期に入って自分で自発的に心に恋愛禁止の壁を作ってしまうまでは、周りに可愛い子も多かったし(純女で)、留学してるときの高校の純女の人や留学仲間もすごい魅力的だったし、自分なりに頑張ってみたんだけど。。

 日本の高校では常に時間が足らなくて、アメリカの高校では普通に話して振舞えるようになるまでが大変だったこともあって、ほんの短い期間だけ本気で好きになった女の子とつきあった以外は、まともな恋愛はしたことがありませんでした。

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大体、高校のころの教師の口癖が、

「付き合うと落ちる。男も女も落ちることが一番多いが、男が落ちて女が受かることもある。しかし、男が受かって女が落ちることはほとんどない。男も女も受かることもあまりない。」

っていうどこかの予備校教師が書いた受験参考書からもらってきたような文句で、それを高校1年生のころから繰り返し繰り返しインプットされて、学校全体にも何となく受験を恋愛や友情よりも優先させる雰囲気があって、、、、

よって、

「勉強が出来ればとりあえず恋愛とかは後でいいか」

と何となく思ってしまえる環境だったので、恋愛はあまり出来ませんでした。

クラスでも、スポーツや芸術が出来る人よりも容姿が優れている人よりもリーダーシップを取れる人よりも、勉強の出来る人のほうが皆の注目度と地位と発言力が上でした。

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それで、ゲイの巣窟だった浪人の予備校の寮を経て、自分以上に恋愛音痴な男の子と頭がいいことは魅力的だけどそんなに可愛くない女の子がそろっていた大学を通過して、今に至る、、、、と。

もちろん、どの時期でもそれなりのセックスはして、一応誰かとつきあうこともあったんですけど、高校生のころに、自分の目標追及に少しでも阻害となる恋愛は排除していくのが正統という価値観にどっぷり染まっていたので、いまだにそのトラウマを引きずってます。

女装してセックスの仕方だけは何となく分かったんですけど、セックスだけひたすらしているっていうのは、要するに多少の気持ちの一時的な揺らぎがある反復運動のようなもので、勉強だけひたすらしていた高校のころと大差がないじゃん、とか思ったりします。

セックスと勉強の間の広い空間にこそ、恋愛を含む人間社会の情緒があるはずなのに、そこにあるものがいまだによく理解できません。多分それは、目標までの一本道をひいたらその道を走り抜けるためにとりあえず周りの景観は無視する態度がよしとされた高校時代の名残だと思います。

もし、もう一度高校1年生のころに戻って、恋愛と受験に関する話をとくとくと聞かされることがあったら、

「目標追求のために大切な感情の一部を否定するのは、効率がよいように見えるかもしれないが、目標が消えうせた後に少なくないつけを払うことになる。そして目標はいつしか自分にとっての価値を減ずるものであるので、目標を達成してもしなくても最後にはイデオロギーによって武装されていない自分だけが残る。目標追求の過程で大切なものを失うと、目標が重要でなくなったときに裸になった自分の身体の一部が欠けていることに必ず気づく。欠損部分はいかなるエネルギーを費やし代償を払っても何らかの形で追い求められることになる。」

と反論することを試みたいと思います。最も、受験が何よりも優先されるクラスの雰囲気の中では、その反論は教師からも生徒からですらも無視され、自分たちよりも幾分か低い者たちが持つ大衆的な認識として蔑まれると思いますけど。















 

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このページは、いとう さやかが2008年11月17日 11:01に書いたブログ記事です。

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